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2004-11

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30 幕末武士の失業と再就職-紀州藩田辺詰与力騒動一件 中村豊秀著 - 2004.11.21 Sun

 図書館で、タイトルに惹かれて借りてきた一冊。
 田辺に居住する紀州藩横須賀組一統に対し、紀州家から支藩安藤家への支配替の通達が届けられた。──そこからこの物語は始まるのだが、実は根はさらに深いところにあった。
 物語と書いたが、これ、新書である。小説のわけがないのだが、筆者の筆捌きが巧みで、ついつい、そこに描かれている人々の世界へ引き込まれてしまう。
 横須賀組の起源は、関が原の戦いにまでさかのぼる。直参として組織された彼らが、やがて世が落ち着いた時代、紀州藩にお預けとなり、与力職としてさらに田辺居住を命じられる。彼らにしてみれば、田辺は仮の住まい。将軍家お声掛かりとしての矜持こそが彼らを長きにわたって支えてきたものだった。
 時は幕末。時代の趨勢のもとで、彼らは紀州家直属の身分から支藩への支配替えを示唆されるのだが、どうしてもこれを受け入れることができない。
 おそろしく忍耐を要する嘆願を繰り返すのだが聞き入れられずに、ついにはそれぞれ家族を伴っての浪々の身となる。
 やがては帰藩も叶えられ、紀州の片隅で彼ら独自の生きかたの中で維新を迎え、たくましく生きぬいてゆくのだが、このどうしても譲れない矜持を疑うことなく、時勢に流されもせず、頑固一途にわが道を突き進んでいった彼らの姿には、胸をうつものがある。
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29  リヴィエラを撃て 村 薫 著 - 2004.11.18 Thu

 東京、ロンドン、ベルファストを舞台に繰り広げられる諜報ものではあるが、ヒーロー・ヒロインは不在。スパイが登場し、スパイが語られてはいても、それがテーマになっているわけでもない。物語の背景となるのは、文化大革命直後の中国と、その中国との国交を巡って繰り広げられる日・米・英それぞれの国内における利権がらみの権力闘争。そしてもうひとつ。北アイルランドを中心として描かれるテロリストたち。主たる舞台を提供することになる英国は、雪や雨、靄の立ち込める寒々としたブルーグレーに彩られ、登場人物たちのキャラクラーを、戯画的に浮き上がらせる。北アイルランドのテロリストを父に持つひとりの青年を中心に、同じ組織(IRA)の古参の男、イギリスMI5、MI6の情報部の男たち、同じくイギリス警察、あるいはアメリカCIA、中国の女スパイ、世界にその名を轟かせた名ピアニスト、などなどが、「リヴィエラ」というコードネームを持つ謎の東洋人を巡って、歴史の闇部に足を踏み入れる。
 物語を展開させるキーとなるのは、一連の事件に脇役的に関わった元イギリス警察のひとりの男の手紙。そして、最後を締めるのは、その手紙の宛先でもある、ひとりの日本人男性だった。村 薫の他の作品にも用いられているが、書簡を効果的に使った作品のひとつだ。その書簡も含めて、やりきれない哀切感が、色調、音階、寒気となって、五感を押し包んでゆく。彼女の作品の多くに登場する、主とした登場人物たちは、色白で長身痩躯な美丈夫として描かれるが、植物的ともとれるようなその美しささえも、作品の通奏低音として奏でられるストーリーの重さ、人間存在の悲しさを際立たせているようだ。
 とても大きなスケールで描かれた作品で、人間であることにどうしようもない溜息を漏らしつつも、それでも思わず人たる人を抱きしめたくなるような素敵な物語。

新潮社 読んだ時期:2004.07 2004.05.01記

28 レディ・ジョーカー 村 薫 著 - 2004.11.18 Thu

 物語構成の重厚さもさることながら、描出されたさまざまな人々の多様さに、目を剥く。歯科医師、工員、老人、身障児をもつ親、競馬場に集う人々、大企業のトップ層、新聞記者、兜町に生きる人々、総会屋に怪しげな筋の人、政財界の大物、そして警察官や検察官。それぞれの世界の詳述はもちろん、そこでの彼らの息遣いまでもがわかるような肉迫した描写が続く。上の世界はいざ知らず、地を舐めるように暮らす人々の暮らしの細々や感性、思いに至っては、どうしてこんなことがわかってしまうのだろうと思うようなリアリティをもって迫ってくる。たくさんの登場人物たちの個性も、最後まで一貫して際立ったものとしてそこに在り、物語における役どころの確かさも揺るがない。
 グリコ・森永事件を土台に描かれた作品だと言われているが、現実の世界から得られる、曖昧模糊としたどうにも釈然としない印象の裏側にある世界を、作家の手によって、こんなふうに切り開いて見せることが可能なのかと、何重にも驚かされた作品である。どこで生き、どんなふうに在ろうが、この人にかかっては、人おしなべて均しく暗い洞窟を抱える存在として、同じ地平に在り続ける。同じ地平にありながら、世の中のシステムとしての立場の相違、持てる力の差、己が魂との対峙の仕方によって、断罪されねばならないものがあることを、作者は諄々と描いてみせる。

毎日新聞 読んだ時期:2004.07 2004.05.01記

27  晴子情歌 上・下  村 薫 著 - 2004.11.18 Thu

 サスペンスの女王と言われ続けてきた高村薫の、純文芸作品。昭和史の激変のうねりの中、晴子という女性を軸に、時代のいくつかの事件にスポットをあてながらも、きわめて内省的な世界が展開します。母晴子から息子彰之に宛てた大量の書簡と、現代を生きる息子の意識世界。その背景として、戦前の東京本郷界隈、青森の雪に閉ざされた農村、北海道での鰊漁、東北の素封家の内情、戦後復員してきた男の苦悶、などが緻密に描かれ、時代の中を黙然と歩んできた晴子の姿が浮き彫りにされます。
 晴子の書簡文は旧字体を用い、書き手の素養や生き様は斯くあらんと察せられる美しい文体です。そこで語られる出来事や登場人物も、ありありとその情景を思い描くことができ、物語の骨格と作り出していきます。他方、その手紙を読んだ彰之の描写となると、その文体は閉口するほど濃密で、緩慢で、観念的で、ひとつのセンテンスがとても長く、彰之の意識内に引きずり込まれていくような、重苦しさに捕らえらてしまいます。
 ことばにしてしまえば明瞭なことも、ことばになる以前の意識界は、おそらく無明の渾然とした世界なのでしょう。鼻や口などの呼吸器官からの呼吸ならばまだ意識されることもあるけれども、皮膚呼吸のさまなど、一体誰が意識しているでしょう。ここに描かれている彰之の世界は、まさにそういった皮膚呼吸の世界のようなありようなのです。一見、脈絡も無いように次々と描出される大量のことばの世界は、否が応でも読んでいる者の意識を締め付けてくるような気さえします。
 高村薫氏は、あるインタビューに答えて、「自分が生きてきた二十世紀という時代を、自分のために、どうしても書いておく必要があった」という意味のことを語られていました。五年という歳月をかけて投じられた、高村文学の金字塔。私は、敢えてそう称したいと思います。

 付け加えるならば、東北・北海道地域における農山村・漁村の営み、旧家のありよう、戦前の鰊漁、そして現代における漁業など、膨大な取材をこなしながら描かれた未知の世界に、瞠目させられました。

 とても読み応えのある、素晴らしい作品です。

新潮社 読んだ時期:2003.05 2002.05.24記

26 東亰異聞 小野不由美著 - 2004.11.18 Thu

 小野不由美を語るのに、この作品をはずしては語れません。
「東京」ではなく「東亰」と記されているのは、単に時代的背景を物語っているだけではありません。限りなく東京に近く、また酷似した世界でありながら、東京にあらざる東亰での物語。好きなんですよ、こういう時代のこういう雰囲気。瓦版ならぬ「読売」がいたり、伯爵家があったり、今ならば古布として売られているようなあでやかで、それでいて古色漂う振袖を着たお嬢様が登場したり、あるいは駆け出しの貧乏記者やら家督相続やら、見世物小屋に人形使い・・・私好みのものがわんさか登場してきます。ミステリー仕立てで、不可解極まりない事件の謎解きに首をひねりながらも、ここではないどこか《東亰》にズリズリっと引き込まれてゆきます。
 ラストは、こう来たか、と意外な感じもしましたし、こう来るっきゃなかったか、という諦めに似た気分をも抱かされました。こういう結末となると、『魔性の子』のように、続編なり、本編や番外編などを期待したくなって来ます。でも本当のところ、結末如何よりも、そこに至るまでのお話そのもの、そこに描かれる世界そのものが、とても魅力的なのが、小野不由美の世界なのかもしれないと思ったりもしています。
「魔性の子」と並んで、小野作品の中でも、大好きな作品です。

新潮文庫 読んだ時期:2000.7 2002.07.18記

25 家族場面  筒井康隆著 - 2004.11.18 Thu

 筒井康隆と言えば、十代の頃、『緑魔の町』と『コレラ』(?)を読んだだけです。どちらも印象には残ってはいますが、それ以来、他の作品を読みたいと思ったことはなかったような気がします。この『家族場面』は、たまたま図書館で目について、借りてきたものでした。
 この『家族場面』に収録されている八つの作品のうち、はっきりと記憶に残っているのは、「天の一角」。着想としても、また話の進行にしても、とても面白いと思いつつ読みました。死刑囚と、彼に死刑を求めた原告、そして死刑を巡る法規について、行き詰るような(?)展開を見せてくれます。あたかもそのタイトルの通り、見開いた本の右ページの右上の角が折れ曲がり、そこに何人かの人物が顔をのぞかせ、「天の声」なるものを発しているかのような幻視・幻聴に襲われそうな愉快さがありました。
 どの作品にも、笑えない深刻なものが内在されているのですが、笑わなくては作者に失礼かな・・・などと、どうも気を使ってしまう。それゆえ、筒井作品は、続けて読む気になれないのかもしれません。
 ちなみに、先に読んだ『コレラ』については、果たして筒井作品であったか、タイトルもこれで正しいのか、はっきりとは覚えていません。ただ、フランツ・カフカの『ペスト』をもじったような作品で、パロディにしてもあんまりだわ~と思いながらも大笑いして読んだことだけは確かです。

読んだ時期:1999.11 2002.07.17記
収録作品:天狗の落とし文/家族場面/妻の惑星/十二市場オデッセイ/大官公庁時代/猿のことゆえ勘弁/天の一角/九月の乾き

24 柔らかな頬  桐野夏生著 - 2004.11.18 Thu

 桐野夏生作品との出会いにしては、その第一印象は決してよいとは言えませんでした。何年かぶりに買ったハードカバーであったわけですが、意気込みが大きかった分、釈然としない重苦しさを残してしまいました。始めて読む作家に、かなり慎重になっていたのでしょうか。
 主人公であるカスミが、夫以外の男に心惹かれて関係を続け、その渦中で一人娘が忽然と姿を消してしまいます。カスミは自分を責め苛みながら娘を探し続けるのですが、それは果てしもない孤独な戦いでもありました。娘探しは、自分探しでもあり、娘を追えば追うほど暴かれてゆく自分自身を抱えて、カスミはさらなる孤独の裡にはまり込んでゆきます。
 末期癌で余命いくばくもない刑事、新興宗教の老祖などが登場して、カスミと関わってゆきますが、本質的にはカスミの殺伐たる心を潤すことはできません。もちろん、夫も、不倫相手の男も。
 もしもカスミが夫以外の男に心を奪われることもなく、平穏に暮らしていたなら・・・。カスミはこうした自分自身を暴かなくてもすんだのでしょうか。子育てという日常の中にあって、何一つ自分に突きつけることなく、穏やかな日々を送ることができたのでしょうか。
 エンディングのない小説、と言って過言であるならば、謎が解き明かされないままのミステリーと言えばよいのでしょうか。犯人を特定することのない結末に、飲み下せない丸薬をいつまでも口の中にころがしているような後味を味わったことは、確かです。それでも、作品としての充足感は、十二分にありました。
 では、私の中に残った釈然としない重苦しさとは一体なんであったのか。それは、もう一度読んでみることでしか、その問題意識も、また回答も、導き出せないような気がしています。

講談社 読んだ時期:2000 2002.07.6記

23 私本太平記(一)~(八) 吉川英治著 - 2004.11.18 Thu

 これまた不純な動機から読み始めたこの作品。やはり大河ドラマに南北朝を描いたドラマが登場するとあって、手にしました。あの頃は、大河ドラマだけでなく、よくテレビを見ていたもんだと、この読書ノオトを書き出してから気づいたという粗忽者です。でも調べてみると、過去の大河ドラマの中で、見たものは数本にしか過ぎません。だからこそ、逆に印象に残っているのかもしれないのですが。
 ところで、本を読むとはどういうことなんだろうと、改めて思っています。かなり分厚い文庫本8冊を目の前に積み上げてみたものの、ここにどんな話が書かれてあったのか、これを読んで何を感じ、どんなことを思ったのか思い出そうとしているのですが、記憶は断片と言うよりも塵のようになっていて、うまく繋ぎ合わせることもできません。それよりも、テレビドラマで見た、真田浩之の足利尊氏、その弟・足利直義役の高嶋政伸、武田鉄矢の楠正成、そしてとりわけ、北條高時を演じた片岡鶴太郎、佐々木道誉訳の陣内孝則らの扮装を凝らした出たちや表情、仕草やそのキャラクターが思い浮かんでくるのです。
 肝心の本の方はどうかと言えば、思い出される断片が映像と重なるばかり。まったくなんという情けない読み方をしていたもんだと、溜息が出てきます。せっかく書棚に並べていても、これでは未読書の羅列とさして変りはないじゃないかと、思ってしまいます。読んでいたときこそ、夢中になってその世界に入っていったはずなのに。面白ければそれでいいという考え方もできるかもしれませんが、たとえ一行でも、なんらかの記録や感想を記しておくべきなのかもしれないと、つくづく思いました。

文藝春秋社 読んだ時期:1991 2002.07.6記

22 バサラ(1)~(3)  栗本 薫 著 - 2004.11.18 Thu

 続編を熱望しているのに、一向に出る様子のない、実に残念無念のシリーズです。
 「バサラ」と称されるまつろわぬ民、その筆頭弥勒丸なる若者に魅入られたのが、天下一の踊り手、出雲の阿国、それを描くは推理・活劇なんでもござれの栗本 薫。と、もうこれだけでも垂涎ものですが、目次を見て、何が何でも読みたくなってしまいました。図書館からの借り物で読んだので、記憶は不鮮明ですが、私が読んだ(つまり、現に書かれて出版されている)部分は、出雲の阿国と弥勒丸の話として展開します。これとても、ようやく佳境に入り、これからというところだったのに・・・。この先、どういう展開が待っているのか予測すらできません。
 そしてこのあとに、第二部、第三部と続く予定のようでした。時代と舞台を変えて、戦国期の動乱の中へ。そして、天草四郎の登場する島原の乱あたりへ・・・。二部、三部で、主役が変ってくるのか、あるいはそのまま時空を越えて存在するものとして描かれるのか、それも興味がつきません。
 とにかく、美しい、面白い、ハラハラドキドキ。弥勒丸は、哀歓漂わせる美丈夫で、内に秘めたる不思議な力の持主。アンニュイでありつつ危険な美しさをもつ彼に対する出雲の阿国は、強く、美しく、才気溢れる凛とした女性として描かれます。そこに、腹黒いお大尽やら、黒幕たる得体の知れぬ僧正なども登場し、河原者としての阿国らの小屋がけぶりやら舞台づくりの裏側、あるいはバサラたちの隠里や、そこでの弥勒丸の厳然たる威容に至るまで、強い筆致で読者の前に描き出してくれます。
<現代の語部が贈る、歴史に見捨てられた"裏側の歴史"><歴史の裏に流れ続けるロック・スピリット『バサラ』>とまで書かれて登場した書下し時代伝奇新シリーズ。その文言を裏切ることなく、読者を十二分にもてあそんでくれます。このシリーズが途切れてしまったのは、どこかに作者が書いていましたが、どうやら例の「グイン・サーガ」シリーズに入ってしまったからのようです。はやいとこ、グインを終えて、こっちに戻ってきてもらえませんか>作者どの。

カドカワノベルズ 読んだ時期:40代前半 2002.05.19記

21 岬   中上健次著 - 2004.11.18 Thu

 テレビドラマ化された中上健次原作、『日輪の翼』をたまたま見ました。中上健次と言えば、かつて学生時代、『蛇淫』という短編を読み、それを映画化した『青春の殺人者』を見て、強烈な印象を持っていました。この『日輪の翼』を見たときも、これはどうしても原作を読みたいと思っていた矢先、フォーラムの会議室に、このドラマについてアップされた女性がいらっしゃいました。中上健次に魅せられて全集を読み込んだというSさんと、それからしばし、コメントのやりとりをさせていただきました。
 健次を読むなら、まずは短編集『岬』から、というお薦めにしたがって手にしたこの作品集。あえなくも私は、この一冊でノックダウンされてしまった感があります。重い。少なくとも私にとっては、とても重い世界でした。
 その後、一年以上の間を空けるまで、健次の次の作品を手にすることができなかったほど重かったです。おそらくこれからも、一年に一作品ぐらいずつしか読み進めることはできないかもしれません。それでも、これからもこだわり続けていくだろう作家であることには間違いはありません。
 少し長くなりますが、この『岬』を読んだ直後、Sさんに返したコメントを引用することにします。健次についてほとんど何も知らずに、こわいもの知らずで書いてしまった、まったく得て勝手なたわ言ですが、このコメント以上に、あのときの感動を語ることはできそうもありませんので・・・。認識の浅薄さや不足がありありと露呈していますが、健次初心者の素朴な感想ということで、お許し願います。
  【中上健次の魅力】-Sさんへ-

 中上健次にじわじわと浸食されていくような恐怖を感じています。

- ついでに『枯木灘』に進んで行かれるとより解りやすいと思うのですが、錯綜する家族関係、これに嫌気がさす人もいるかもしれない。反復され続ける、複雑な血縁関係の描写があります。 

 やはりそうですか。
 この『血』への執着とも言えるこだわりは、壮絶なものがありますね。自分の中の御しがたいものに突き当たるとき、人はさまざまな方法でそれを克服しようとしますが、これを克服する試みの過程で、さらに自己のアイデンティティを求めなければならない必要性がギリギリと出て来てしまう...それは、あるものを克服してゆく過程で、下手をすると自己崩壊の危機にさらされることがありえるからなのでしょう。
 では、中上氏は、なぜそこまで『血』に怯えたのか...それは、単に個別的な事情、つまり産みの父親である男の特殊性、ということではないような気がします。たしかに父親を核にしてその回りをぐるぐると回っているような書き方がされてはいますが、父親に象徴されるものから受け継ぐ血=土俗的なものによって引き裂かれる自我に怯え続けたのではないかと、そんな気がして来ました。
 彼の体内を流れている血の濃さは、ではどこから来たのか。それを考えると、どうしても和歌山、いえ、紀州という国の特殊性を思わざるを得ません。
 これはあくまでも私の勝手な推論にすぎませんが、紀伊半島は近畿の一地方でありながら、半島深く及んでいることから、たくさんの特殊性を擁した土地ではないかという気がしています。南北朝時代に起こる根来衆、戦国期には真田昌幸、幸村親子が幽閉された地。また、雑賀党はじめ土俗の地侍たちが割拠する地であり、信長、秀吉も彼らゲリラ的自由の徒を意のままにすることはできませんでした。江戸時代、徳川御三家のひとつとして紀伊藩は吉宗などを排出してはいるものの、藩政は半島の半分にも及ばなかったと聞きます。また山奥深く分け入ると、そこは修験道者たちの籠もる神々の山であります(いい加減に書き連ねてますので、まちがいだらけかもしれません )。
 距離的には京阪神にあれだけ近く、周囲を海に接していながら、内深い山々を抱き、時の為政者の手の届きにくい土地。貧富の差も激しく、黒潮に洗われ、台風に叩かれ、独立不羈と反骨の精神を養わずにはおられない土地柄ではなかったのでしょうか。
 沿岸の、特に南端部、中上氏が育った新宮から太地のあたりは、捕鯨に見られるように、海に乗り出し海とともに生きた者が多かった...同時に半島南端部は、黒潮の流れが南洋の島々から寄せて来るところに位置しているため、古くから遭難した南洋の人々が流れ着く場所であったことも推察されます。また、太地の捕鯨のもとは、かつて瀬戸内を荒らした村上水軍の残党だという説もあるようで、海賊時代に略奪した高貴な姫たちの血がかなり流れ込み、それゆえ太地には美人が多いという言い伝えもあるそうです。
 中上氏の作品で『父』として登場する男、そして主人公の男の体躯の良さや相貌は、この地域のある種の男たちの持つ相貌を連想させました。『勇魚』という鯨とりを描いた小説の主人公もそのような風貌でしたし、...蛇足ながら、私の父親一族もまったくそのままの雰囲気です。
 そして、山岳部の人々。これは全く趣を異にしているのではないかという気もしています。かつて有吉佐和子が、紀州女は、うりざね顔の色白美人...と書いていたような気がするのですが、これはおそらく海浜に生きる人々とは、まったくルーツを異にしているような気がしてなりません。かつての高貴なる人々の落人であったり、いわば支配者階級の人々の末裔であるような...。
 以上は、私の憶測と推論であり、ここに並べた例示や逸話もとってもいい加減なものに過ぎないのですが、紀州について日ごろ漠然と感じているものを並べてみました。
 中上ワールドの骨太さを思うとき、こうした背景を無理矢理でっちあげてみたくもなるほどの、土性っ骨、泥臭さ、陽では無いけれど決して陰々滅々たる陰ではないどす黒い闇、腺病質ではないけれど異様に繊細で研ぎ抜かれた鋼の斧のような危うさ...そんなものを感じてしまいます。
 それは、都会人、現代人が、すでに去勢され忘れ去った何か、本来の血のどす黒さ、猛々しさ、愛などという言葉では表現しきれない熱い生命そのものなのかもしれません。ただ、それらをはっきりと抱えながら、この現代に生れ、優れた知性を持たざるを得なかった...現代という時代に置かれた知識人にならざるを得なかった中上氏の苦悩の大きさを思うと、書くしかなかったことが否応なくわかるような気がします。
 いわば都会のインテリゲンチャの典型でもあろう某評論家氏言うところの『人間の相貌をそなえた、けものじみた世界』などという言葉が笑えてしまうほどの、本物の土俗性。海と山が実は人を閉ざす世界であることをその血の中にはっきりと自覚した中上氏。それゆえに、Sさんも私も、彼の中に『男』性を見たのでしょう。
 そして同時に彼の描く『女』性、そして『母』性。
 高群逸枝の「女性の歴史」という膨大な女性史研究の書の中で(ちらっと読んだだけなので、きわめていい加減ですが)示唆されている、太古の時代の『母』性と『女』性の乖離のない世界。今の私たちには考えられない、女と母がまるっきり重なった同心円で存在する者として描かれているように思えました。
 母でありながら女であることを、当の母は真っ直ぐに引き受けて生きています。ただ、息子の目から見ると、母親は一匹の雌であり、ひとりの女である以上に、かけがえのない聖なるものであって欲しい思いを消すことはならず、その母が女である生き方を目前で繰り広げることに対する、生理的とも言える拒絶感が、痛いほど伝わります。
 中上氏の中で、父親、もしくは兄が『男』の象徴的存在になっていないでしょうか。そして母親、もしくは病弱な姉が『女』の象徴に。父と兄、母と姉、その姿は対極にあるようにも描かれ、相矛盾しているようにも見受けられますが、中上氏にとって父と母は直列の、兄と姉は並列の血の関係であるということで、ひとまずは理解しましたが、いかがでしょうか。

- 主人公秋幸が土方の仕事を心底好きで、土をあぶり、日を受け、芙蓉の花が匂う、そのままの自然の中にいる世界に心を揺さぶられ続けて来た。
 そうですね。そしておそらく中上氏は、都会に身を置きながらも、そうした土の臭いを絶えず自分の内に感じ続けたのでしょうね。それが、今彼が身を置く世界では、決して受け入れられない違和感に苛まれながら。
 乾いて無駄のない文体でありながら、濃密なる世界を描ききる。それは灰汁などと言う体液の中の廃液ではなく、体液そのものの濃さ、吐き出す呼気の臭気。それでいて、おそらく中上氏には体臭はない。体臭など籠もる余地のない生きざまの中で書いている中上氏を、今、強く感じています。
 血縁や地縁、紀州の海や山を描くことで、彼は自分の血脈を叩き出すと同時に、これは自己救済、自己浄化の闘いだったのかもしれませんね。

 昨日、ゴッホ展を覗いて来ました。ゴッホも、自分をもとめた画家であったと思わされたのですが、激しいものを持たされて生まれ落ちたものは...どこまで行っても、いわば自己のアイデンティティをもとめることでしか生き残れないのかもしれない。そんなことを漠然と思いつつ帰って来ました。
 なんだか全くまとまりのないことを、ぐだぐだと書いてしまいました。これほどの持ち重りのする作家や作品と、この歳になって出会えたこと。Sさんに感謝です。

読んだ時期:1999.11  2002.06.27記
収録作品:岬/浄徳寺ツアー/火宅/黄金比の朝

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