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2006-08

45 陛下  久世 光彦 著 - 2006.08.27 Sun

 こういう時代を舞台にした小説は、分類に困る。時代小説といえばお江戸かそれ以前のイメージがあるし、かと言って現代小説と言えるかどうか。

「小石川白山界隈は、坂道と猫の多い町である。上りの人力車の車夫は前屈みに深く笠の頭を垂れ、足を踏ん張って坂道をいく。難儀している車夫をからかうようにその顔を見上げ、少し先行しては立ち止まり、車が追いつくとまたその前を過ぎって走るのがこの町の猫である。」

 作品の冒頭、こう始まる。
 なんとそそられる書き出しだろう。猫と車夫を登場させているだけなのに、時代、町の雰囲気やようすを伺い知ることができる。付近には、八百屋お七の墓があり、三味の音の漏れ聞こえる娼家がある。もう少し厳密に言えば、時代は二・二六事件の少し前の頃。北一輝が登場し、その回顧段として宋教仁にも触れられる。
 そうした歴史的なことがらを背景に据えてはいるものの、それは舞台の書割。セッティングされた大道具は、娼家の中で引き起こされる悲喜こもごもであったり、主人公である青年将校の御家の内情であり、主人公・梓と娼婦・弓の生きた時代、その中の小さな世界なのである。
 登場人物の想いが、幾重にも折り重なる幻想的な想念として展開される。どこまでが実際に起こった事柄で、どこからが幻想なのか。登場人物にとって夢うつつの境目が判別できないのと同じように、読者もいつのまにか引きずり込まれ幻惑されてしまう。
 匂いや香り、雪の幻想の描写は特に美しい。けれども、美しいがゆえにその瘴気に中てられてしまって、読み進める中、何度も頭を振って目をパチクリさせてみた。
 以前読んだ、同じ久世さんの『一九三四年冬―乱歩』に比べると、舞台設定としてはこの『陛下』の方が具体性があるはずなのに、幻想という果てしなく拡散し、あるいはどこまでも収縮されてゆく世界への吸引力の強さは、遥かに大きい。その力に抗することに、読書中のエネルギーを費やしてしまって、読後、船酔い状態のようだった。
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44 ルート350  古川 日出男 著 - 2006.08.27 Sun

 小説というのは、抽象化、象徴化の結晶だろう。
 写実的であるとかリアリティがあるとか言われても、土地や歴史や人物などの事象がたとえ固有名詞で名指されていたとしても、それは具体的な現実そのものではなく、表現するための何ものかであるはずだ。それは、作者の意図や姿勢に関わりなく、結果としてどうしてもそうなってしまうということなのだと思う。

 日常的で身近に見聞きしていることがらについて、微に入り細に入り描写された小説も好きだ。乃南アサの『幸福な朝食』で、キャベツを刻み続けて部屋の中に千切りキャベツが溢れてしまうシーンとか、角田光代の『エコノミカル・パレス』で、どこどこの店でいくらのものを買ったとか、身につまされるほど生活感に即したものも、面白いと思う。何よりも、そうした日常的な事物は、読み手としても何ら苦しむことなくストレートに反応することができるわけだから。

 前置きばかりの感想になってしまいそうだが、この『ルート350』は、そうしたリアリティからは少しばかり離れた見せかけを持つ作品群だ。たとえば、誰もが気づいてしまう施設名を敢えて用いず、一般名詞に置き換えて話を進行させる。単純で見え透いたレトリックだが、敢えて名を伏せたことで、その施設は特定のものから解き放たれ、同時に作者の意図がよりわかりやすいものとして見えてくる。

 だからかもしれない。わけのわからない抽象的な物語、そんな外見を装っていながらも、どこかで必ずこちらの胸の奥をチクリと刺してくる。あるいは苦笑いを漏らし、ときには声に出して笑ってしまう。

 最後に収められた「補記」で、
 『たぶん僕は文体に関しては自意識過剰で(だから作品ごとに表面的なスタイルは激変する)、モチーフに関しては無意識過剰なんだと思う。』と語っているが、この自意識過剰文体、私は好きだ。

 この短編集に収められた作品たちのタイトルを、記しておこう。

 「お前のことは忘れていないよバッハ」
 「カノン」
 「ストーリーレイター、ストーリーダンサー、ストーリーファイター」
 「飲み物はいるかい」
 「物語卵」
 「一九九一年、埋め立て地がお台場になる前」
 「メロウ」
 「ルート350」

43 黒と茶の幻想  恩田 陸 著 - 2006.08.20 Sun

 ひと言で言ってしまえば、大嫌いではないけれど、大好きではない作品、そして作者。
 何かが釈然としないのだ。読後の後味がよろしくない。気になる登場人物、舞台設定、テーマであったりもするし、ストーリーの面白さもありはするものの、どうにも読みづらかったり、辟易としたりしながら、エンヤコラサっとチカラワザで読み終える。
 舞台背景(設定)と、描こうとしている中身のちぐはぐさ、圧倒的であるはずの自然の大きさと、それよりも全編に溢れまくる会話や心情吐露のバランスの悪さ。挿入されるエピソードは、読んでいて神経を疲れさせるばかりで、こんなもんはいらんだろうと思ってしまうものが多い。
 主人公である4人を、ほぼ等分に描いたことの意図はわかるような気もするが、それにしても、これだけの分量は多すぎやしないかい、と、読みながら、あるいは読後にも思ってしまう。

 それでも、まだ気にはなるのだ、この作者。だからもう少しは読んでみるつもりではいるけれど・・。

 饒舌すぎる小説は、寡黙すぎる詩よりもタチが悪い。
 そんなことを思った読後である。

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